ソーセージが焼けるまでの

前回のブログから、2週間近く経過しているとは思っていなかった。まぁ、この間の日々が実習中心に展開していたことと、noteの下書きは積んでいたために、あまり書いていないことへの実感が湧かなかったのであろう。

なんだかんだ言って、僕は「書く」ことに帰ってくる。「語る」ことの方が好きな気がするが、結局、本気で「書く」のが、あるべき姿なのだと感じる自分がいる。

さて、今回筆を執ったのは、一言でいうなれば、落ち着かなくなった。これに尽きる。

明日から次の実習が始まる。行くかどうかは分からないけれど。いや、別にやる気がないとか、実習を放棄しようとかそういう気持ちがあるわけでは無いので、別に鬱々してるとか、進級がどうでもよくなったとかではなく、普通に明日行かなかったとしても、もっともらしい理由がつくだろうし、巻き返せる予定だ。

 

思考が止まらない。適度な疲労感と、満足感、焦燥感か。思考がゆるゆると流れていく。書こうとしていた本題にたどり着くよりも、今この場で新たな思考が生成される方が早いくらいである。

 

近くのスーパーで、二パックでクソ安くで売られていたソーセージを友人が持ってきた。確かに、なかなか見ないくらいの値段で合った気がする。

そのソーセージを焼こうとして、ふと気づく。一袋あたりのグラム数が、少し少ない。

人間はより大きな枠組みから順に物事を考えてしまう。袋の中に入っているグラム数というミクロよりも、袋が二つあるという、マクロに対して先に目が行ってしまう。そして、一個着眼点を見つけてしまえば、その先に踏み込むことはあまりない。

ただ、これに気付かなければ、得をした気分のままでいられて、販売側も消費者側もwinwinである。

というか、カロリーが少なくなるので、win-super win だ!って人までいるかもしれない。

グラム数を少なくするときに、カロリーがカットだったり、食べやすいサイズ、だったり、それらしい言葉で装飾される。けれど、それは誰かを不幸にすることではないと思う。

飢えを傍らに感じることが無い程度の裕福になれている僕らは、食品の実物よりも、満足感やお得感を買っているからだ。その実際は実は優先されるとは限らない。

 

そうこうしているうちに、焼きあがったソーセージを食べるために、僕は筆を置く。